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レビューからすでにネタバレ気味ですのでご注意ください。
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✏️ゆう: Yuko_AT_JPN
レビュー Review
『CHESS The Musical』2025年ブロードウェイ・リバイバル版は、ダニー・ストロングによる新脚本。オリジナルの制作チーム:ティム・ライス(作詞)とABBAのベニー・アンダーソンとビョルン・ウルヴァース(作曲)公認の、37年ぶりのブロードウェイ公演です。
主役のアーロン、リア、ニコラスの3人はもちろん、キャスト全員歌が本当にすばらしい!今回初めて「banger(バンガー:最高に盛り上がる曲・名曲)」という英単語を覚えましたが、このミュージカルはまさにバンガーにつぐバンガー。40年来の根強いファンがいるのも納得です。
いままでわかりにくいと言われてきた脚本も、新脚本では話が整理されて登場人物に共感しやすくなっており、一人一人の心情が深く胸に迫って感動しました。
1986年ロンドン版の「同じゲームをしながらも誰もルールは同じでない。誰も誰の味方でもない」という言葉は、現代にも通じる普遍的なテーマです。「みんな同じ盤上にいるのに、見ている現実も、守られる条件も、背負わされる意味も違う」 という感覚と、信頼の崩壊、分断。さらに対立の背後に国家という大きな権力構造があり、互いに戦う当事者も、構造の被害者。そして皮肉なラストは、当時の「時代の気分」にマッチしていたと思います。
しかし、楽曲が大ヒットしてからミュージカルが作られたためか、歌は素晴らしいのにそれを繋ぐ物語がぎこちなく、登場人物の行動は動機がわかりにくく、共感しにくいものでした。
2025年、分断があらゆる場所で可視化されている時代の『CHESS』BWリバイバル版は、オリジナルのテーマを継承しつつ、「歪んだイデオロギーに翻弄されながらも、自分の『最善の一手』を選び取っていく人々の物語」だと思います。
冷戦期の実際の事件を背景に取り入れたことで、各人物の行動の動機が明確になり、単純な悪役はいなくなりました。しかしそれによってむしろ、イデオロギーの対立に翻弄される人間たちの緊迫感はより増しています。
そして物語は「誰も誰の味方でもない」では終わりません。分断の果てにほんの少しの対話と受容が芽生え、チェスの犠牲の戦術が勝利を導くように、それぞれが信念に従って指した「一手」の先に、小さな奇跡が起きるような物語です。
随所に笑いやユーモアもちりばめられ、素晴らしい歌に聴き惚れているとあっという間に2時間40分が経ってしまいます。
この舞台のライブ映画を出して欲しいのはもちろんですが、この物語の厚みやキャストの演技の繊細さを味わうには、舞台での2時間40分は短すぎます。ぜひ『Wicked』のような映画を作って欲しい。もちろんキャストは全員今のままで!
登場人物 Characters
2025年版の新脚本に沿った人物像なので、他のプロダクションに当てはまるものではありません。
フレディ・トランパー Freddie Trumper

アーロン・トヴェイト Aaron Tveit
フレディは無類の強さを誇る現・世界チャンピオンのアメリカ人グランドマスター。天才的な腕を持ち、対戦相手を侮辱する問題発言も多い彼は、チェス界の悪童として国際的な注目を集め、どこに行ってもファンやマスコミに追いかけられます。
自信満々で傲慢な彼は、躁鬱病、現代でいう双極性障害を抱えています。世間のバッシングに傷つき、薬を飲まないと極度のうつ状態に陥ってしまいます。
音や光にも敏感で、ソ連の妨害工作に怒りを抑えられなくなり、試合を中断してしまう場面も。フローレンスの献身のおかげで精神の安定を保って試合ができているにもかかわらず、些細なきっかけで爆発して彼女を罵ってしまい、愛していると伝えることもできずにいます。
フローレンス・ヴァッシー Florence Vassey

リア・ミシェル Lea Michele
フローレンスはフレディのセコンド(コーチ)で、彼女自身もグランドマスターになれる実力を持つ、世界有数のチェス理論家です。
ハンガリー出身で、10歳の時のハンガリー動乱でソ連軍に父親を連れ去られ、目の前で母親を殺されるという悲劇的な過去を持っています。
彼女はフレディの恋人でもあり、躁鬱の激しい彼を7年間も公私に渡って支え、共依存的な関係に陥っています。そんな中でアナトリーに出会い、彼の誠実さに安らぎを感じます。
アナトリー・セルギエフスキー Anatoly Sergievsky

ニコラス・クリストファー Nicholas Christopher
アナトリーはロシアのグランドマスターで、世界チャンピオン挑戦者。
幼いうちに家族から引き離されチェスを叩き込まれて、勝つためだけに生きてきました。
チェスの強さが国の強さとするソビエトで、彼は形式だけの結婚をさせられ、恵まれた生活を保証されていましたが、内心では生きている実感がつかめず自殺願望を抱えています。
自分自身を「勝つためのチェス・マシーン」と呼ぶ、あまり感情を露わにはしないけれど、誠実でユーモアもある男。フローレンスと出会って愛を知り、感情や人間性を取り戻していきます。
スヴェトラーナ・セルギエフスキー Svetlana Sergievsky

ハンナ・クルズ Hannah Cruz
アナトリーの妻。かつてはアナトリーとともにロシア社交界の花形でしたが、彼の亡命によって「裏切者の家族」と冷遇される境遇に転落。蔑まれいじめられる子どもたちを救うためにKGBに従い、アナトリーを動揺させて敗北させ、国に連れ帰る駒としてバンコクにやってきます。
チェスの試合に没頭して家庭を顧みなかった夫アナトリーを憎みつつも愛している、芯の強い女性。
フローレンスとアナトリーは、物語が始まる前に出会い、アナトリーはフローレンスに恋をし、フローレンスも彼を憎からず思っていました。メラーノ大会で再開した二人は、お互いを想う気持ちが本物だと気づきます。しかし、フローレンスにはフレディがおり、アナトリーにも形式的とはいえロシアに妻と子どもがいる。フレディは言葉にはできないもののフローレンスを愛しており、アナトリーの妻スヴェトラーナは、子どもたちのためにもアナトリーを取り戻したい。この二重の三角関係が物語の横軸です。
そして縦軸は、チェスの勝敗を国益のために操ろうとするアメリカとソ連のスパイの暗躍。「ロシアがチェスの王者になるかどうか」という試合の行方と、歴史の上で現実にあった核削減条約の締結や核ミサイル発射の阻止が絶妙にリンクして、緊迫感を高めます。
アレクサンダー・モロコフ Alexander Molokov
ブラッドリー・ディーン Bradley Dean
ソ連を代表するのは、アナトリーのチェスのコーチでKGBのモロコフ。ロシア人らしい情の厚さと冷酷さをあわせ持つ、策略家のイケおじ。
チェスこそ現代の戦争、チェスの覇権はソビエトが握らねばならない、という強い信念を持っています。表の顔は礼儀正しい紳士ですが、裏ではどんな姑息な手や恫喝を使ってでもソビエトが勝つように画策します。なぜなら、敵に負けた選手は祖国に恥をかかせたとして「消されて」しまうからです。モロコフはアナトリーが幼い頃からずっとチェスを教えてきたので、彼を自分の息子のように大切に思っています。
ウォルター・デ・コーシー Walter de Courcey
シーン・アラン・クリル Sean Allan Krill
アメリカを代表するのは、CIAのウォルター。キングズマンのような風貌の、絶妙なユーモアの持ち主。
登場時に「こいつはちょっと嫌な奴だ」と紹介されるとおり、彼にとってはチェスの勝敗はどうでもいい。大統領選に有利になる核削減条約を締結させるためなら、ロシアに勝たせるために、自国の選手であるフレディを妨害することも平気でやります。しかしそれは、自分の子どもに「核の冬」を味あわせたくないためだと言います。ところがその子どもも、相手によって息子になったり娘になったりしているので、本当かどうかはわかりません。その腹の読めなさがスパイっぽい。(彼に双子の息子と娘がいることに3000点賭けます)
登場人物の中でただ一人持ち歌がないのをアービターにからかわれます。
ジ・アービター(裁定者)The Arbiter

ブライス・ピンカム Bryce Pinkham
アービターはナレーターとして、愛と陰謀と歴史が入り組んだ「冷戦ミュージカル」のストーリーを皮肉とユーモアたっぷりに導きます。
チェスの試合においては64マス全てに目を光らせ、不服申し立てには丁寧に耳を傾け、厳格で公正な判断を下す切れ者の裁定者となります。
彼のスナップでストーリーが動き始め、最後のスナップで物語が終わります。
あらすじ Synopsis (Spoilers)
ネタバレあり。
2025年版のキャストレコーディングアルバムと、このショーを10回ほど観劇した際にメモした印象的な演技やセリフから構成しました。英語の壁が私にとってはかなり高いため、間違って捉えている部分があるもしれません。1986年ロンドン版のスクリプトも参考にしました。あと、フレディの描写が他の登場人物より多めです。
第1幕 Act 1
時は1979年。アメリカとソ連は、わずか数時間で地球全体を滅ぼすのに十分な核兵器を保有していた。人類文明の終焉を防ぐため、両国は代わりに冷戦状態に突入した。民主主義と共産主義、握手をしながら水面下では相手を叩き潰し、優位を示そうとするイデオロギーの対立。チェスの対局にさえ危険が潜む困難な時代だ。(“Dangerous and Difficult Times”)
アービターが現れ、観客を史上稀な「冷戦ミュージカル」にいざなう。
最初に紹介されるのは、ロシアのグランドマスター、アナトリー・セルギエフスキーとコーチでKGBのアレクサンドル・モロコフ。
モロコフは、騒音や催眠術師を使って敵のフレディ・トランパーの集中力を乱す作戦を伝えるが、アナトリーは不正行為などしないと断る。モロコフはアナトリーの親友のボリス・イワノビッチがフレディに負けて「消された」ことを思い出させ、「私はお前が幼い時から育ててきた。お前に彼のような末路を辿らせたくないのだ」と言う。

しかし、アナトリーは「すでに死んでいる者を処刑することはできない」と答える。彼はロシアでのチェスの王者として恵まれた生活を保障されているが、自由も自分の感情も見失い、勝ち続けてもどこにも行き着くことができない孤独と焦燥感を抱えている。(“Where I Want to Be”)

次に紹介されるのは、アナトリーと対戦する現世界チェスチャンピオン、アメリカ人のフレディ・トランパー。彼は11歳でチェスのグランドマスターになり、今では双極性障害を患っている。薬を飲むのをやめると、悪評に傷つき起き上がることもできない極度のうつ状態になる。(“Pity the Child #1”)
フレディのセコンドは、美しく聡明な世界有数のチェス理論家、フローレンス・ヴァッシー。フローレンスは倒れているフレディを発見し、彼が成し遂げてきたチェスの最善手を思い出させ、彼に薬を飲む気力を取り戻させる。

ようやくフレディは薬を飲むことを受け入れる。薬を飲むと途端に饒舌になり、対戦相手を罵る言葉が止まらない。「俺は「クソ野郎(asshole)」だからな」という彼をフローレンスは上手くあしらい、試合でも記者会見でも「いい子(good boy)」でいる約束をさせて、イタリアのメラーノに向かう。
イタリア南チロル地方の温泉保養地、風光明媚な美食の町メラーノ。市民たちがその美しさを讃える。(“Merano”)

そこにフレディとフローレンスが到着し、市民たちに熱狂的に迎えられる。称賛されるのが大好きなフレディは上機嫌。(“What a Scene, What a Joy”)


対局前の記者会見。フレディはソビエトにも敬意を払った自信満々の受け答えでフローレンスを安心させる。


ところが、次の質問が彼のスイッチを切り替えてしまう。「あなたは精神病でしょう。だから優れた訓練を受けたソビエトチームを打ち破った唯一のアメリカ人になれたんですか」
「優れた訓練ってのは、幼い頃に家族から引き離され、子供時代を檻の中のネズミのようにして訓練されることか?コミュニスト政権は、国民に対して残酷なのと同じように、チェスプレイヤーに対しても残酷なんだ!」
フローレンスが止めるのも聞かず、フレディは怒りをぶつける。
「俺がアナトリー・セルギエフスキーを負かしたら、KGBがあいつをボリス・イワノヴィッチと同じように消すだろう。グランドマスターが地上から消えたのに、お前らは俺をバッシングするのに忙しくて報道すらしなかった!」
記者たちは猛反撃を始め、口々にフレディを追い詰めていく。ついにフローレンスが前に出て記者たちを一喝し、記者会見を終わらせる。(“Press Conference”)
一部始終を見ていたアナトリーがフローレンスに近づき、二人はぎこちなく一年ぶりの会話を交わす。アナトリーはストックホルム大会で出会って以来、毎日彼女を想っていたと伝える。なぜフレディと一緒にいるのかと問われたフローレンスは「彼は世界一のチェスプレイヤーだから。それに、私は彼を愛してる」と答える。アナトリーは「世界二位だよ」と、自分が王座に着く自信と、彼女の愛を得る希望を短い言葉に込める。
一方、国際的な陰謀の場では、CIAエージェントのウォルター・デ・コーシーと、KGBのモロコフが密談を始める。フレディの暴言がマスコミに報じられたことで、ソビエトはSALT II条約の核軍縮交渉の席を離脱。このままでは条約そのものが破棄されかねない。アメリカにとっては、大統領選を見据え、条約締結という成果がどうしても必要。一方のソビエトは、チェスの世界王者の座を手に入れたい。交渉再開を条件にCIAとKGBは手を組み、フレディ・トランパーを倒すという密約が交わされた。

ここでアービターは、謙虚な語り手から、厳しく公正な裁定者に変身する。(“The Arbiter”)
国際チェス連盟世界選手権が始まる。対局前の握手を求めるアナトリーをフレディは無視する。

二人が一手を打つごとに、彼らが決して外に出すことのない、内心の声が聞こえる。伝えられない愛、怒りがコントロールできない葛藤、離人感、自殺願望。フレディの強さがアナトリーを上回ると、彼への妨害工作が始まる。アナトリーが出す唸り声や指でテーブルを叩く音に加え、CIAが仕込んだ電灯のノイズが高まり、音に敏感なフレディを苦しめる。ついに彼は「こいつはイカサマ師だ!ソビエトがフェアな試合をするまで、俺は続けない!」と爆発し、出ていってしまう。(“Chess Match #1”)
アナトリーは卑怯な手を使ったことを恥じて、「不戦勝は真のチャンピオンではない」と正々堂々と対局をすることを望む。モロコフはこのままフレディを棄権させて不戦勝に持ち込もうとするが、アナトリーは頷かない。「チャンピオンとして生きるか、失敗者として死ぬかどちらかです」。
対局の続行か棄権かを決める裁定者のアービターの元に、フローレンス、モロコフ、アナトリーが集まる。モロコフは被害者の立場を装い、アメリカの横暴を嘆いてみせる。一方のフローレンスは毅然とした態度で、ソビエトによる政治的な攻撃だと強く異議を唱える。アービターが仲裁に入るが、両者の非難の応酬は収まらない。ついにアービターはフレディが24時間以内に試合に戻らなければ、彼は王座を放棄したものとみなす、と宣言する。(“Quartet (A Model of Decorum and Tranquillity)”)
モロコフがフローレンスに慇懃に「東欧の同胞」と呼びかけると、フローレンスは「同胞?私が10歳の時のハンガリー動乱で、ソビエト軍は父を連れ去り、母を目の前で射殺したのよ!」と爆発する。モロコフは言葉を失うが、アナトリーは「僕は子どもの時に親から引き離されたので、あなたの気持ちはわかる」と共感を示し、名誉ある対局の続行を望む。三人はマウンテン・インでフレディを交えて対局再開の条件交渉を行うことに合意する。
フローレンスがフレディのもとへ戻ると、彼は「監視カメラが取りつけられている」とホテルの部屋をめちゃくちゃにしていた。彼女は話し合いの約束を取りつけたことを伝えるが、彼女が「アナトリー」とファーストネームで呼んだことに気づいたフレディは、彼女とアナトリーの関係を疑う。侮辱されて怒るフローレンスに、フレディは彼女の心の傷になっている1956年 —ハンガリー動乱の記憶を利用して「ロシアと通じて俺を見捨てるのは父親への裏切りだ。お前の父親が生きていたら恥じて死ぬだろう」と反撃する。( “1956—Budapest is Rising”)

「なぜそんなことを言うの!」とひどく傷つく彼女にフレディは「君自身がやったんだ。山で会おう、ベイビー」とキスをして去る。(酷いモラハラぶり!)

フローレンスはフレディへの不信と限界を感じ、関係の終わりを悟る。「みんな同じ盤上で勝負をしているのに、誰も同じルールで動いていない。誰も誰の味方でもない。」一方で「考えてはいけない人が頭から離れない」と別の想いにも揺れ動くが、誰も信じられない現実に直面し、孤独を受け入れる決意へと向かう。(“Nobody’s Side”)

“Nobody’s Side” – Lea Michele and the Broadway Cast & Orchestra of “Chess” (LIVE on The Late Show)
CIAのウォルターはKGBのモロコフと接触して、ロシア代表団はいつSALT-II条約交渉の席に戻るのかと問う。モロコフはフレディの正式な敗退が条件だと答える。フレディへの妨害工作は成功した、と難色を示すウォルターにモロコフは、アナトリーへの父のような情と、もし彼が負けたら二度と会えなくなるという恐れを明かす。ウォルターも、9歳の息子が「核の冬」を生きるという悪夢を現実にしないためにここにいる。利害を共有した二人は、再び謀略のために手を結ぶ。
月夜のマウンテン・イン。話し合いの場にフレディが現れず、フローレンスとアナトリーは二人きりになってしまう。とまどい、警戒しながらも会話を重ね、やがて惹かれ合う二人。互いの手を取り、唇を重ねそうになったその時、フレディが現れる。二人を見て痛烈な皮肉を投げつけ、話し合いは決裂する。(“Mountain Duet”)



CIAのウォルターがフローレンスに接触し、フレディを棄権させろと迫る。彼女がハンガリーの難民で米国市民ではないことを盾に取り「我々は望む者を、望む時に国外退去させられる」と脅迫する。彼女が拒否すると、フレディの薬が見つからなくなるようにするだけでもいい、と示唆する。これもフローレンスはきっぱりと拒否する。ウォルターはさらに、フレディが負ければアナトリーの命が守られると揺さぶりをかける。
皆が再びアービターの元に集まる。フレディはカメラの撤去や観客の排除、新しいチェス盤を要求するが、アービターは変更を認めず、10時間以内に復帰しなければ棄権したとみなす、と通告する。
苛立つフレディは、CIAもロシアも自分を陥れようとしており、フローレンスも自分を裏切っていると疑う。彼女の言葉に耳を貸さず、性差別的な言葉で攻撃し「消えろ!出て行け! 他の誰かの寄生虫になれ!」と罵る。フローレンスは耐えかねて決別を宣言する。「もう無理。終わりよ。これで本当におしまい!」(“Florence Quits”)
フレディは背を向け、フローレンスは部屋を出ていく。彼女はアービターが差し出すフレディの薬に目を止め、その薬を持ち去る。一人きりになったフレディは、はじめて「愛してる」と本音を口にする。そして薬がなくなっていることに気づき、動揺し崩れ落ちる。座り込んだ彼は、世界に裁かれる孤独と、理解し愛してくれる人を求め続けてきたが得られない苦しみを呟く。(“Pity the Child #2”)
その日遅く、フレディは記者会見で、アナトリーとの対局の棄権を発表する。「これが公正な対局になるとは信じられない。ロシアを、そして自分自身を含め、誰も信用できない」と、はじめて怒りを制御しながら伝える。そしてこの競技がずっと自分の健康を蝕んできた、とチェス競技からの引退も宣言する。苦渋の決断が伺える表情。彼は「お前らの駒でいることに疲れた」と言い残して去っていく。
その裏で、モロコフとウォルターがSALT-II 条約成立に向けた策略の成功を祝う。
フローレンスはアナトリーと結ばれる。未来の見えない恋に深く落ちてしまった不安と喜び、理性では説明できない強い想いに戸惑いながらも、彼と生きることを望む。(“Heaven Help My Heart”)

アナトリーも政治やチェスより彼女を選ぶ決意をし、英国への亡命を発表する。

王者となったアナトリーが西側に亡命したため、ソビエトのチェス王者奪還の目論見は崩れ去る。モロコフは米国の裏切りだと激しく非難する。ウォルターは米国は彼らの亡命を断ったと弁明し、米国は合意を守ったと主張。互いに責任を押し付け合う中、SALT-II条約は破綻し、モロコフは失敗を背負って帰国を余儀なくされる。
記者会見でアナトリーは厳しい質問攻めにあう。(“Anatoly and the Press”) 亡命の理由や計画性、家族の行方を問われるが、彼は多くを語らず、妻子についても国家に委ねられると冷静に答える。

ロシアのレポーターが彼に、ロシアを裏切って祖国に背を向けるのか、と鋭く問う。アナトリーは、「国家や体制がいかに支配しようとも、祖国の本質は奪えない。国を捨てたのではない。どこにいても祖国は自分の内にある」と静かに強く歌い上げる。(“Anthem”)
第2幕 Act 2
4年後の1983年。幕が上るとそこは妖艶なバンコクの歓楽街。(“Golden Bangkok”)
フレディは今や精神病の薬を服用しておらず、このバンコクでセルフメディケーションをしている。セクシーな男女に囲まれ、はめを外して楽しんでいるように見えるが、彼の興味は「腰から上」ー最高の頭脳が競うチェス世界選手権にしかない。彼を解説者としてテレビカメラの前に立たせるために、皆が次々に彼に服を着せていく。

上半身だけ整えてテレビ中継を行うフレディ。「バンコクへようこそ。4年ぶりの世界チェス選手権では、現王者アナトリー・セルギエフスキーが元同胞ウラジミール・ヴィガンドと激突します。セルギエフスキーは前回の優勝の後に ―ちなみに不戦勝ですが(笑)ー 英国に亡命したため、これは依然として東と西の対決です。明日は彼の独占インタビューをお届けします」不戦勝、とわざわざ付け加えるところに、真のチャンピオンはまだ自分であるというこだわりが垣間見える。(“One Night In Bangkok”)
アービターが、アナトリーの疎遠になり忘れられた妻、スヴェトラーナ・セルギエフスキーを紹介する。
モロコフはスヴェトラーナにアナトリーを帰国させるよう迫る。彼女は「自分と子どもたちを酷い状況に追いやった彼に戻ってきてほしいとは思わない」と拒絶するが、モロコフは「まだ愛しているのだろう?」「昔の華やかな生活に戻りたくはないか」と揺さぶる。さらに「従わなければさらなる不利益がお前と子どもたちに及ぶ」と脅迫し、彼女は「わかったわ」と言わざるをえない。
スヴェトラーナが、夫アナトリーへの愛と喪失を回想する。「男であり子ども」だった彼は、かつては自分の存在理由だった。成功とともに彼は離れ、自分は取り残された。優しい記憶にすがりながらも裏切りへの怒りと未練が交錯し、「彼を憎ませて」と神に願う。それでも愛は消えず、彼を求め続ける自分に「私は何者なのか」と問い続ける。(“He Is a Man, He Is a Child”)

ソビエトのチェスチームが杯を交わす酒場の片隅で、モロコフはCIAのウォルターと再会する。ウォルターが「なぜ東欧でソ連軍が動員されているのか」と問うと、モロコフは「米国大統領がソビエトを『悪の帝国』と呼んだために、ソビエト軍部はNATOの軍事演習『エイブル・アーチャー83』を、演習を装った奇襲攻撃と疑っている」と語る。ウォルターがただの演習だと否定しても溝は埋まらず、モロコフは緊張緩和の手段としてチェスの王座奪還を示唆する。ウォルターは呆れるが、モロコフは「チェスこそが戦争なのだ!」と言い放つ。
モロコフは同志たちと共に、国家に忠実なヴィガンドを称え、アナトリーは祖国や妻を捨てた罪悪感で集中力を欠いている、恋人と妻、二人の女性が出会ったら、板挟みになって奴は自滅すると嘲る。ウォルターに一本のビデオテープを渡し、「ソビエト・マシーン」が盤上でも盤外でも勝利すると高らかに宣言する。(“The Soviet Machine”)
ウォルターが初対面を装ってフレディに近づく。フレディはすぐに彼がCIAだと見抜く。「おでこに何か書いてあるぞ。「CIA」ってな。何が欲しいんだ、秘密探偵クルクル(Secret Squirrel)?」ウォルターは、アナトリーとのインタビューで役に立つビデオテープを渡したい、ともちかける。最初は「興味ないね」と言うフレディだったが、「もし私が自分の女を奪った男にインタビューするなら、そいつを動揺させてやりたいと思いますがね」と言われ、「何が映っているんだ?」と興味を持つ。
フローレンスとアナトリーがテレビスタジオに到着する。「フレディのインタビューなど断ればよかったのに」と言うフローレンスに、「彼を恐れていると思われたくない」とアナトリーは答える。彼はいまだに、自分は不戦勝なので真のチャンピオンではない、ということにこだわっている。4年間の幸せなロンドン生活で二人の間には強い絆が結ばれており、フレディにもヴィガンドにも必ず勝利しようと言い交わす。
フレディがやってきて「来てくれてありがとう」と握手を求めるが、アナトリーは手を出さない。(メラーノ大会で握手を無視されたお返しだ!)フローレンスが警戒しながらも「元気そうでよかった」と言うと、フレディは「競技チェスから離れて良かった。今はずっと気分がいいんだ」と語り、過去の態度を「本当にすまなかった」と謝罪する。彼女はそれを受け止め、ちょっといい雰囲気になるのを見たアナトリーが「さあインタビューを始めようか」と急かす。

インタビューで、フレディはアナトリーの亡命や政治的動機を執拗に追及し、対局と東西対立の思惑、妻の不在を突く。激しい応酬が繰り広げられ、アナトリーは次第に追い詰められていく。唐突に、妻スヴェトラーナの「帰ってきて。今でも愛してる」というビデオが流され、彼は激昂し「インタビューは終わりだ」と席を立つ。(“The Interview”)

「あいつが妻や子どもを捨てた浮気者の嘘つきだと知らせるためにやったんだ!」と言うフレディに、フローレンスは「彼は優しくて思いやりがある。あなたとは違うの!」と言い放つ。言葉を無くしたフレディが去ると、アナトリーは、スヴェトラーナのビデオは彼女の本当の気持ちではなく、二人の感情を操ろうとするKGBの心理戦だと説明する。わかっていても、フローレンスは心を動かされてしまう。
二人はようやく手に入れた平穏な愛の間に人生や政治が割り込んできたことに気づき、それでも変わらずに愛し続けると誓う。フローレンスは「世界を差し出してでもこのままでいたい」と願い、真実と嘘が入り混じる現実よりも、無知でいる幸福を選びたいと語る。数々の試練を越えてきた二人は、それでもなお「今度こそ幸せな結末が待っている」と信じ続ける。(“You and I”)

フローレンスとアナトリーの間を引き裂けなかったKGBは次の手を打つ。モロコフは、フローレンスの父がシベリアで生きている証拠写真をウォルターに渡す。
ウォルターはフローレンスに写真を見せ、アナトリーが負ければ父親が帰ってくる、と取引を持ちかける。しかし彼女は「偽物の写真で亡くなった父を取引に使うなんて卑怯よ」と怒る。ウォルターは「私も父親だ。9歳の娘がいる。信じてくれ。あなたの父親は確かに生きている。アナトリーが試合に勝てば、ソビエトは彼を殺すだろう」と言うが、彼女は信じない。
アナトリーにはスヴェトラーナが近づく。スヴェトラーナは「今でも愛している」と訴えるが、アナトリーは「君は僕を愛したことなどない」と拒絶する。彼女はかつて彼が人生そのものだったと語り、今の成功も「勝ってなどいない」と言う。さらに、負けて帰らなければ自分は殺されると告げる。しかしアナトリーは「彼らは君を殺したりしない。ただのゲームだ」と言い切る。(“The Deal (Pt.1)”)

CIAはフレディを使ってさらに二人に揺さぶりをかける。ウォルターはフレディに、アナトリーをロシアに帰国させればフローレンスは君に戻るとけしかける。
フレディはアナトリーに、(フローレンスの父と)等価交換でモスクワへ帰れ、試合を投げてフローレンスへの愛を証明しろ、と持ちかける。しかしアナトリーは「モスクワには戻らないし、試合も投げない」と取引を一蹴する。
ウォルターはフレディに最後の賭けとしてフローレンスへの直接の働きかけを命じる。
フレディはフローレンスに「俺がバカだった。二人で黄金時代を取り戻そう」と情感を込めて訴え、アナトリーとの関係はモスクワに仕組まれたものだと仄めかす。だがフローレンスは「私たちはもう先に進んだの。二度とあなたとは一緒にならない」と拒絶する。フレディが「俺は変わったんだ。愛している」と懇願しても、「あなたに愛する能力などない」と冷たく突き放す。
フローレンスは、フレディがここまで堕ちた姿を見て、「こんな卑しい結末になるとは誰が思っただろう」と嘆く。アナトリーは「自分が見捨てられたと悟るまで憎しみを吐かせておけ」と突き放す。フローレンス、アナトリー、フレディ、スヴェトラーナの四者が「誰も意図した通りの手など打たない。ゲームが終わって初めて『ほら見たことか』と言う」と合唱し、最後にアービターとモロコフ、ウォルターも加わり全員が「誰もがゲームをしているが、ルールは誰一人として同じではない。誰も誰の味方でもない」と鋭く締めくくる。(“The Deal (Pt.2)”)

一人残され、精神的などん底に陥ったフレディは、孤独な少年時代を回想する。両親の不和と父の失踪、母のネグレクトという環境の中で、幼いフレディは傷つかないために「感じないふり」をし、孤独な自立を選んだ。「自分は親の重荷だ」という罪悪感を抱え、拒絶されることを恐れて、親には何も聞かなかった。チェスだけが彼の生きる術だった。
大人になって、欲しいものは何でも手に入るようになった今でも、彼は母親に電話をかけない。拒絶されること以上に恐れているのは、もっと残酷な結末。母親から「……誰?」と言われることだ。(“Pity the Child”)
フローレンスはKGBに送り込まれたアナトリーの妻スヴェトラーナと対峙する。スヴェトラーナはKGBの工作を認めつつも「あなたが幸せになるために、私たちは苦しまなければならない。あなたが彼を愛しているのはわかっている。でも私たちには彼が必要なの」と本音で語る。フローレンスが「ごめんなさい。彼と別れるつもりはないわ」と告げると、スヴェトラーナは静かに言う。「…わかってる。謝らないで」。この一言が、フローレンスの決意を内側から揺るがしていく。
フローレンスとスヴェトラーナ、同じ男を愛したふたりに対立を超えて共鳴が生まれる二重唱。それぞれが「彼との時間は確かに素晴らしかった」という煌めく思い出とともに、「彼は私のものにはならない」と自覚する。ふたりはお互いに、彼が必要とした「安心」も「夢と自由」も、その全てを自分一人で与えることはできなかったと気づく。二人は静かに認め合う。(“I Know Him So Well”)

同じ頃、フレディはアナトリーのもとを訪れ、ヴィガンドに勝つための戦術を授ける。「勝敗以上に重要なものがかかっている」と悩むアナトリーに、フレディは言う。「政治もKGBもCIAも全部クソ食らえだ。チェスに全てを捧げたのは俺たちだ。幼少期も、正気も。愛さえも。」二人のチャンピオンは「勝つためにプレイする」という純粋な信念を共有する。フレディは「政府が魂を失ったからといって、俺たちまで魂を失う必要はない」と言い残して去る。
エイブル・アーチャー演習まで数時間。モロコフはチェスの対局でロシアが勝てば戦争を回避すると宣言し、ウォルターは「これは演習に過ぎない」と反論する。モロコフとウォルターは「国家への忠義」と「ただのゲーム」をそれぞれ語り、フローレンスとスヴェトラーナは「名声や欲望こそが選手を壊す」と歌う。チェス盤の外で、世界の命運が動き始める。
決勝戦。盤上で最後の一手を前に、アナトリーの頭の中で、声が交錯する。スヴェトラーナは「家族を捨てたのに、あなたは何も失わなかった」と責め、フローレンスは「私も忘れられても驚かない」と嘆く。フレディと群衆は名声を煽る。核戦争警告のアナウンスが背後に流れる中、政治、妻、恋人、名声——あらゆるものが彼の魂を引き裂く。


「僕の仕事を、名を、自由を奪おうとしない者が、誰一人いないのか」アナトリーは全てを振り払い、チェスプレイヤーとしての純粋な義務に従う。チェックメイト。(“Endgame Pt. 2”)

皆が拍手でアナトリーを讃える中、スヴェトラーナは崩れ落ちモロコフに連れ去られる。アナトリーとフレディは視線を交わし、フレディがうなずく。新しいチャンピオンの誕生を見届けた彼は空を仰ぎ、静かに去っていく。
ロシアの将軍たちは核のボタンを押さなかった。間一髪で世界は核戦争の瀬戸際から引き戻された。このエイブル・アーチャー83の事案は、後にレーガンとゴルバチョフの核軍縮の対話へとつながり、冷戦終結の契機となる。
(その裏には、こんな物語があった。と、はっきりとは言わないけれど—)
モロコフは「おめでとう。お前が子どもの頃から、チャンピオンになると分かっていた」とアナトリーの勝利を心から祝いながらも、軍部の判断を告げる。「スヴェトラーナを罰することがお前への罰となる。しかしチャンピオンとなった今、帰国すれば亡命したこともすべて許される」。アナトリーは「戻るなら、一つだけ条件がある」と答える。
一方、フローレンスはひとり、スヴェトラーナと子どもたち、そしてとアナトリーを守るために、彼と別れることを決意する。「これは別の誰かの物語」と語りながら、一人の少女に彼を愛する想いを託し、それでも別れを告げなければならない状況を客観的に受け止める。あの少女に「今すぐ行きなさい」と言えるなら、その言葉は今の自分へ向けられたもの、と自分自身を勇気づける。(“Someone Else’s Story”)
真の世界チャンピオンとなったアナトリーは「チェスから自由になった」とフローレンスに告げる。彼女は静かに言う。「モスクワへ帰って。あなたの安全と、スヴェトラーナと子どもたちを守るために」。「でも戻れば、真実の愛を失う。君に出会うまで、その言葉の意味すら知らなかった」とアナトリーは答える。「時には、チェックメイトへの唯一の道が「犠牲※」であることを、あなたは知っているはず」と自分を犠牲にして彼を送り出すフローレンス。別れとわかっていながら、二人は最後の時間を永遠であるかのように抱き合う。(“You and I (Reprise)”)
※主要な駒を犠牲にすることで、よりよい状態に持っていく戦術
アナトリーが去り、泣き崩れるフローレンスにウォルターが近づき、アメリカ帰国のビザを二枚差し出す。「なぜ二枚なの?」「アナトリーがロシアに戻る条件としてただひとつ求めたのが、君のお父さんの解放だ」。そして、疑う彼女の元に、年老いた父親を連れてくる。
「パパ!生きていたのね!」少女のように駆け寄り、あたたかく抱擁されるフローレンス。アナトリーが彼自身を犠牲にして取り戻した彼女の父親は「チェスの試合のせいで私の人生はついに終わるのだと聞いたよ」と言う。それに答えるフローレンスの言葉は、彼女自身の人生を表していた。「違うわ。ただのゲーム以上のものだったのよ」。
アービターが歌う。「チェスの一局ごとに 残された手筋は一つ減る。過ぎた一日ごとに、犯す可能性のあるミスも一つか二つ減っていく」(“Epilogue”)
考察 Notes(ネタバレ注意)
悪役はフレディから「魂を失った政府」へと変更
ロンドン版では、フレディが不可解なほど傲慢で自己中心的な言動で騒動を引き起こし、物語を動かしていく「悪役」的存在でした。しかし2025年版では彼もまた駒として消費されるひとりの人間であり、その代わりイデオロギーに固執したソビエトの政権が人々を振り回す存在として描かれます。まるで強大な力を持つ駄々っ子のように、「ソビエトが一番でなければならない」と敗者を粛清し、それを非難されたのが気に入らない、と核軍縮交渉を放棄し、NATOの軍事演習に過剰反応して核のボタンを押そうとする。その危うさは、現代にも通じるものがあります。
登場しない新キャラ「ボリス・イワノビッチ」と、「粛清」のエピソード
フレディに負けたソビエトのグランドマスター、ボリス・イワノビッチが、祖国に恥をかかせたという理由で秘密裏に「消された」、というエピソードが加わり、物語にわかりやすさと広がりを与えています。これはソビエトチーム、特にモロコフにとってはどんな手を使っても「絶対に負けることはできない」動機となり、フレディにとっては「自分が勝てば相手が死ぬ」という大きな精神的ダメージと怒りの根源になります。フレディがこれをマスコミに訴えても妄想的暴言と誤解され攻撃され、さらに深傷を受けることになります。
フローレンスがフレディの薬を持ち去った理由
はじめて観たときは、「フローレンスはいくら傷ついたとはいえ、病人の薬を持ち去るのはひどいな」と思いました。しかし何度か観るうちに、あれは衝動的な復讐ではなく、フレディと別れる決断をした瞬間に、以前にウォルターに示唆された、自分とアナトリーの命を守る一手を打ったのだと気づきました。おそらく薬はウォルターに約束を守らせるために彼の手に渡り、フレディが棄権を発表した後に、何らかの方法でフレディの元に戻ったのではないでしょうか。彼女の戦略家らしい一面だと思いました。
ゲームの流れを変えたのはフレディとスヴェトラーナ
「誰も誰の味方でもない」という八方塞がりの状況を変えたのは、フレディとスヴェトラーナだったと思います。
フレディは自分自身すら信用できずにいましたが、「Pity the Child」で傷ついた内なる子どもと向き合い、自己受容へと踏み出します。そしてヴィガンドに勝つ秘策をアナトリーに授け、「真のチャンピオン」の座を彼に譲る。その結果、アナトリーは子どもの頃から縛られていたチェスから自由になります。
スヴェトラーナがフローレンスにかけた「……わかってる。謝らないで」という言葉。これは、それまでの主張のぶつけ合いとは異なる「対話」の兆しです。子どもを抱え危険な立場に置かれながら、相手の気持ちに理解を示したその一言が、フローレンスの心を動かします。
フローレンスは自分の気持ちを犠牲にしてアナトリーとスヴェトラーナの子どもたちを守り、アナトリーは彼が初めて掴んだ真実の愛を犠牲にしてフローレンスの父親を取り戻し、彼女の傷ついた少女時代の心を救う。
これは、傷ついた子どもたちを救う物語でもあったのかもしれません。
「モロコフはいい人」説
モロコフは、ロシアのチェスコーチでKGBでもある恐ろしい人物です。でも実は彼はいい人なのではないでしょうか。
ロンドン版のでは、フローレンスの父親が生きていると言うのはKGBの流した偽情報です。KGBとCIAですから嘘はお手のもの。フローレンスは最後に裏切られる、という皮肉なラストになっています。しかし今回のプロダクションは本物の父親が帰ってきます。
幼い時にハンガリー動乱で両親を失った怒りをフローレンスがモロコフにぶつけた時、それまで慇懃な作り笑いをしていた彼が真顔になったのが見えました。20年以上前の話なのに、彼はきっと彼女の父親の居場所を根気よく探したのだと思います。モロコフいい人すぎませんか。見つけたことは情報戦の餌にしたけれど。彼はアナトリーを父親のように愛して育ててきたし、実は困っている子どもを見捨てられない気のいいおじさんなのでは、と思いました。こんなふうに、ひとの「善性」を信じられるのも、このプロダクションのいいところだと思います。(モロコフを演じたブラッドリー・ディーンさんがステージドアでとても親切な方だったので、モロコフを見る私の目に「いい人フィルター」がかかっているのかも。)
「ザ・80年代」的な女性の扱い方が無くなった
オリジナルの脚本では、モロコフがアナトリーに「フレディの弱みはあの女だ」とフローレンスに言い寄るように指示するシーンがあったり、記者会見で「セコンドが女性っていうのはどういうことですか?色男!」と揶揄する質問が飛ぶシーンがありました。脚本が書かれた当時は、セコンドを女性がこなせるわけがない(愛人を連れて歩く言い訳だ)ということが一般的に受け入れられる無意識の前提があったのだと思います。2025年版ではこれらのセリフは一掃され、フローレンスは世界有数のチェスの理論家、と認められているのはとてもいいと思いました。
削除・変更された楽曲
1986年ウェスト・エンド プロダクションの曲目をベースに、曲の追加・移動・削除を記しました。太字が新脚本に残っている曲。
第1幕
Prologue
The Story of Chess(削除)
Difficult and Dangerous Times(移動)
Anatoly and Molokov / Where I Want to Be(移動)
Pity the Child #1(追加)
Merano
What a Scene! What a Joy!
Merano (Reprise)(削除)
Commie Newspapers(削除)おしい。悪口を書かれた新聞を一緒に読みながらいちゃいちゃするフレディとフローレンスを見てみたかった。
Press Conference
Anatoly and Molokov / Where I Want to Be(2番目に移動)
Difficult and Dangerous Times(1番目に移動)
The Arbiter
Hymn to Chess(削除)
The Merchandisers(削除)
Chess #1
The Arbiter (Reprise)(削除)
Quartet (A Model of Decorum and Tranquility)
Florence and Molokov
1956 – Budapest is Rising
Nobody’s Side
Mountain Duet
Chess #2(削除)
Florence Quits
Pity the Child(第2幕へ移動)
Pity the Child #2(追加)
Embassy Lament(削除)亡命受付の大使館員たちを描いたこの曲はファンが多いらしい。惜しがっている人をよく見かける。
Heaven Help My Heart
Anatoly and the Press
Anthem
第2幕
Golden Bangkok
One Night in Bangkok
He Is a Man He Is a Child(新曲)
One More Opponent(削除)
You and I(The Interviewの次に移動)
The Soviet Machine
The Interview
You and I (5番目から移動)
The Deal
Pity the Child(1幕から移動)
I Know Him So Well
Talking Chess(セリフのみ)
Endgame
Someone Else’s Story (追加) 他のプロダクションではスヴェトラーナの歌らしい。
You and I (Reprise)
Finale(削除)
Epilogue (追加)
2025年版CHESS 背景年表
『CHESS(2025)』の物語中の出来事、キャラクターたちが語った過去と、関連のありそうな歴史上の出来事を並べて年表にしてみました。プレビューで語られていたけれど本公演ではカットされた、アナトリーとフローレンスの生い立ちのエピソードが好きだったので入れておきました。
| 年 | 『CHESS』(2025)の中の出来事 | 歴史上の出来事(太字は物語にも出てくる出来事) |
|---|---|---|
| (P): プレビューにあり本公演ではカットされたエピソード | 1945年の第二次世界大戦終結後から 1991年のソ連崩壊までを米ソ冷戦時代と呼ぶ。 米ソは直接の戦争は避けたものの、核兵器の保有、 軍事力、科学技術、宇宙開発などあらゆる面で競い合い、 自国の優位性を示そうとした。 | |
| ? | フローレンス@ハンガリー (P)父親にチェスの手ほどきを受け、 才能を見出される アナトリー@ロシア 親から引き離され、チェス養成所で訓練を受ける。 (P)チェスが嫌いで6歳の時に脱走するが、連れ戻される | ソ連政府は、国際的なスポーツであるチェスで チャンピオンとなることが、他国より知的に 優れていることを証明すると考えていた。 そのため国策として強いチェスプレイヤーを養成した。 |
| 1956 | フローレンス(10) ブダペストに侵攻してきた ソ連軍に父親が連行され、母親は射殺される (P)難民として救済され米国の家庭に引き取られる | 1956年 ハンガリー動乱 |
| ? | フレディ(11) 全米チャンピオンになる フレディ(12) 父親が家族を捨てて失踪 フローレンス (P)米国内でのチェストーナメントで優勝するが、 国際試合ではソ連に対する怒りが抑えられないため 冷静に勝つことができず、選手からセコンドに転向 | 1958年 ボビー・フィッシャー(フレディのモデル)が 15歳でグランドマスターになる |
| 1972 | (メラーノ大会の7年前) フローレンスがフレディのセコンドとなる | 1972年 ボビー・フィッシャー 20年以上チャンピオンの座を独占していたソ連を破り、 世界チャンピオンとなる。 西側から見てこれは歴史的な勝利となり フィッシャーは「アメリカの英雄」として扱われた |
| 1978 | (メラーノ大会の1年前) ストックホルム大会 フローレンスとアナトリーが出会う | 1975年 ソ連のグランドマスター ボリス・スパスキー、 ヴィクトール・コルチノイが西側に亡命 1976年 民主党ジミー・カーターが大統領に |
| 1979 | 【第1幕】 世界チェス選手権 メラーノ(イタリア)大会 世界王者 フレディ 挑戦者 アナトリー フローレンスとフレディ 破局 フレディ 試合を放棄し引退 アナトリー 不戦勝により世界王者に フローレンスとアナトリー イギリスに亡命 | 1979年 SALT II 条約 調印したものの批准せず |
| 1980年 共和党ロナルド・レーガンが大統領に 1982年 ソ連のブレジネフが死去 アンドロポフが指導者に | ||
| 1983 | 【第2幕】 世界チェス選手権 バンコク大会 世界王者 アナトリー 挑戦者 ヴィガンド フローレンス アナトリーのセコンド フレディ テレビ局のチェス解説者 | 1983年 NATOが大規模軍事演習 「エイブル・アーチャー83」を実施 ソ連は米国が「演習」と称して 核の先制攻撃をしてくると考え、 核ミサイルの発射準備を進めていたが、 間一髪で発射は回避された |
| 1989年12月 マルタ会談で、米大統領ブッシュと ソ連書記長ゴルバチョフが、冷戦終結を公式に宣言 |


